吉田氏は『シリーズ都市・建築・歴史 都市・建築の現在』という本を読んだかな?
その中の中川理さんの”環境問題としての風景論”は3人の絶対の必読書だと思います。
この本にはまさにいままであたし達が話してきた”インテリア化する商業空間”の話がでてきてるの。
この本の面白いところは、商業空間がなぜ現状のようなテーマパークのような空間になってしまっているかを極めて論理的に説明しているところかな。
今わたしたちがもっている<景観>という概念が本来の意味を失って視覚的な意味が強い<風景>という意味合い強くなってしまっているということ。<景観>には本来は地表の空間的まとまりを表現する言葉であって、そこにはどちらかというと<風土>に近い意味を持っていたにもかかわらず、近代社会の宿命として、常にわたしたちが周囲の環境を客観的に分析しようとしてきたということ。その結果、象徴的・客観的な認識と、物理的あるいは生態的な側面からの認識との間にかつてありえた豊な関係を決定的に失いつつあるということ。(これを「風景転換」という)
ここまでは、まあ時折聞くはなしなんだけど。
この本ではさらにその先をきちんと説明してくれている。
「近代社会において、風景という概念は、人間が風土を客体として認識し、距離をおいたところから始まった。
その客体化の行き着く先として「風景転換」があった。しかし、社会科学のはったつは、次第に主体をも認識の対象としてしまうという事態に至る。つまり、認識する主体としての「わたし」が、「わたし」自身も認識の対象とするようになるそのけっかとして、主体はそれ自身もが風景になることをもとめるようになっていく。」
これがこの人の言う「ディズブーランダゼイション」。
で、この自分が風景になる、という「まなざし」を最も巧妙に空間化させて見せたのが、ショッピングセンンターを中心とした大規模商業施設のデザインであると。(本にはいくつかの事例が挙がっている。)
でもこうした商業空間の限定性は、一方で集客ノウハウとしてはきわめて有効だけれども、それはあたらしい「まなざし」の不安にこたえているからであって、実は主体の絶対性が失われる「まなざし」とは、常に不安定である。よりどころとなる絶対的な価値をもつことが難しいから。それを成り立たせる為に仮説的な限定をする、つまり限定された時間、空間、テーマをもって人々のその場限りの「まなざし」の欲望を満足させようとする。それが徹底的に限定化された大型商業空間であるということ。
さらにこの本にはそれら商業空間デザインの作例にいわゆる建築家と称される人々はほとんど関与していないことについても述べている。
これらはアメリカを中心とした商業施設専門の設計チームによって設計されるらしい。
でもこれにも、きちんと理由があるのだとさ。いや、すごいすごい納得する。このつづきは明日話します。
これを読んでいたり、昨日のエスキスをうけていたりすると、本当に都市と郊外の関係について考えていきたいなら、事業借用地権によって10年程度の期間限定で成立している大型商業施設を扱うことに、そもそも矛盾があるのではないかと思い始めたの。
今の私たちの考えで、どう頑張って商業施設を変質させようとしても、それは結局新たなテーマパーク的な存在を造り出すだけなんじゃないかと。(イオン土浦店も10年後にはべつの施設に変わっているだろう)
外に開いた、といってもそれは本当の意味で外に開いているのではなく、結局開いたその周囲を含めてあらたな限定されたこの本でいう「まなざし」の世界を造り出しているにすぎないんじゃないかって。
リサイクルという考え方は、消費のサイクルの中にある商品世界でのはなしであって、建築物をそうした商品世界の中にひきずりこむことは、建築を商品と同じように常に更新され続けるものへと変質させてしまうことだから、本来の建築の恒久的な存在が危ぶまれてしまうんじゃないかと。やっぱ”建築”をつくりたいじゃん??いくら社会的な問題に取り組みたいとはいえ。
だから、商業施設を考えることは大事なんだけど、それそのものを取り扱うかどうかは考え直したい。
違うアプローチがあるはず。
だれかみかんぐみの「ダメ建築」か『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』もしくはクライン・ダイサム・アーキテクツの 『メイド・イン・トーキョー』もってない??ちょっと話しのキーになるのよね。。
・・・・とにかくこの本のこの人の部分をみんなにも読んでほしい。明日一応頑張って説明するけど。コピーしてくるね。
これ読んでもあんまりわかんないかもしないけど、すまぬ。。。
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